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永寿山福蔵院
えいじゅさん ふくぞういん
〒437-1505 静岡県菊川市高橋4816
虚空蔵山の由来:国源(正林寺)の末寺 福蔵院の西の岡に一古堂があり、虚空蔵尊体を奉安してあった。この尊体は行基菩薩の刻む日本三体の一つで西は三重県、東は山形県、中部は当山であり、極めて尊厳なものである。天正年間に堂は兵火の為焼失したが、像は石の洞窟にあり無事であった。そこで堂の再建をなし、像も祀られ益々霊験もあらたかであった。ただし鐘楼が無かったので、正林寺住職霊領師が書状をしたため、法弟心応和尚を四方に使いに出し寄付を集め、鐘を鋳造する準備をなした。しかし募金は意の如くならず、遂に鐘楼の再建は一時中断の止むなきに至った。その後先人の遺徳を偲び、その立派な志を煙滅さすべきでないとの強い願望により、うやうやしく資金集めの勧業で、やっと享保10年秋、鐘楼の再建ができたのである。
【虚空蔵山の年歴】
・建保六年(1218)(順徳天皇の代)
承久の乱以前に建堂し祀る。
・天正九年(1581)三月十八日
高天神城全滅の四日前に兵火により堂焼失。
・寛永八年(1631)
堂が再建される。
・享保十年(1725)秋
梵鐘が建立される。
・昭和三十年(1955)九月二十日
梵鐘が再建される。但し、第二次大戦により供出されたため。
(注)天正、寛永年間の50年間、像を石窟に祀る。
昭和五十年二月吉日 山西老人クラブ
平成二十一年三月吉日 虚空蔵山世話人記す
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《小笠風土記》よりP82
行基作虚空蔵菩薩
高橋福蔵院の守護する虚空蔵堂に行基作と伝えられる虚空蔵菩薩像が安置されている。伝記によれば順徳天皇の建保六年夏、山中に光輝(こうき)あり、明煌(めいこう)遥かに望むべく日を経ていよいよ著しく、老幼婦女恐怖して夜門を出でず。豪気の農夫あり、衆を率いて光の元を探り、叢中の洞窟より一体の木造を掘り出す。
その何たるかを知らず、偶々(たまたま)老僧あり、拝して曰く。是虚空蔵菩薩にして、行基菩薩の正作なりと。 是より信者の賽(さい)する者多く、霊験亦灼然(しゃくねん)たり。後に堂宇を建立し、毎月十三日を縁日とす。参詣者踵(きびす)を接し、商店軒を並べ市を成す。天正九年三月十八日、兵火の厄に罹(かか)り、林樹堂宇灰燼(かいじん)となりたれど、本尊は霊体依然たり。後、寛永八年九月十八日堂宇の再建成り以て今に至る。縁日の市場は常に繁盛を極めたり。信徒今なお遠方より参詣する者多し。
享保乙巳暮秋 吉旦
化主・・・正林寺当住真領
元人・・・同 先人霊頷
享保乙巳(享保10)・・1725年 吉旦・・吉日
化主・・住職 真領・?五百年史に記録なし
元人・・年長者 霊頷・・正林寺十世(1691)
境内の梵鐘には以上のような事が誌されている。(小笠郡史より)この梵鐘は戦争中に供出され、現在のものは戦後に鋳造されたものである。
《小笠風土記》よりP82
江戸から船で来た虚空蔵様のお堂:寛永年間に江戸で名工によって作られたもので、海路をはるばる相良の浜に
陸揚げされたのである。相良や萩間方面の信者の奉仕により、馬や人の肩によって鬼女原を超えて運ばれたと云うことである。このお堂は、江戸にあったものを移築したものか、江戸で作られ、ここに新築したものかは明らかでない。このお堂は、江戸にあったものを移築したものか、江戸で作られここに新築されたのかは明らかではない。古い建築様式をもつ飛坦垂木(飛坦垂木?->飛檐(ひえん)垂木、二重垂木の上段の垂木)の工法によるもので、旧小笠町としては最古の建築物で約三百六十年も昔のものである。建立の時の奉仕依頼、虚空像様と相良、榛原の人々は縁が深く、昭和初期頃までは縁日の参詣も、相良、榛原方面の信者で賑わったものである。
《正林寺五百年史 P284》
名称:永寿山 福蔵院
住所:菊川市高橋4816
本尊:虚空蔵菩薩
開創:天正二年(1574)
開山:安石光住大和尚 正林寺五世
境内西の山上に虚空蔵菩薩の尊像を祀るお堂があり、それは順徳天皇の承久三年(1221)の承久の乱以前の建立と伝えられ~享保10年(1725)梵鐘が鋳造せれ~大戦に供出~昭和30年再鋳
~12年毎の開扉法要~
~毎年2月に節分会~
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《現在》
福蔵院は無住の寺院。
竜泉寺の住職が兼務。
参道脇に山西郷土資料館が設置されている。
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